The story of Cipherail ― 禁じられた言葉

禁じられた言葉


 その館を目にした時、クレスティナは思わず息を呑んだ。彼女の視線の先では、秋の穏やかな日差しの中で、二階建ての青い屋根の館がまどろんでいる。黄色い葉を茂らせた銀杏の木が玄関の両脇に立ち、建物右手奥には小さな厩舎が見えた。
「――ここへ出る道だったか……」
 王妃の所用で王都の郊外へ出かけた。その帰り、今までに通ったことのない道を見付け、そちらへ馬首を向けたのだが、通じていたのは思いも寄らぬ場所だった。
「あの……何か御用ですか?」
 クレスティナが馬上でぼんやりしていると、下方から声がかかった。視線を下げると、蔓の模様をあしらった黒い鉄柵の向こう側で、十代半ばくらいの少年がこちらを見上げていた。手に箒を持っているところを見ると、この館で下働きをしているのだろう。
 普通、目下の者が目上の者を凝視することはないのだが、奉公歴が浅いのか、少年は迷った様子もなくクレスティナを見つめており、返答に窮していた彼女は一瞬、押し黙った。
「いや……こちらにはどなたがお住まいか?」
「ガイルザーテ将軍旗下のランドール様でございます」
 誇らしげに答える少年に、クレスティナは思わず笑みを誘われた。主人を慕っているのがありありと伝わってくる。ランドールとは直接言葉を交わしたことはないが、ガイルザーテの副官なので、顔は知っていた。実直な性格で知られている人物である。
「あの……?」
「いや、以前、ここに知り合いが住んでいたゆえ、懐かしく思ってな」
 不思議そうな顔をしていた少年に説明してやると、彼は「ああ」と首を傾げた。
「うちに出入りしている酒問屋の者に聞いたことがあります。以前は近衛兵団の副長フゼスマーニ様のお屋敷だったそうですね、亡くなられた」
 不意を突かれるとは、まさにこういうことなのだろう。その名を耳にして、クレスティナの紅蓮の瞳から一瞬、光が消えた。
「あ、あの……?」
 彼女の様子がおかしいのに気付き、少年が戸惑っている。それを見て、クレスティナはようやく我に返った。小さく息を吐いて落ちてきた横髪をかきあげると、視線を鉄柵の向こうに投げた。
「……まだ庭に――」
 脳裏に紫色の郁金香チューリップが散らついた。庭に咲いていたからと、朝露の付いた摘み立てをもらったことがあった。
「はい?」
「いや……何でもない」
 遠い昔のことを今さら掘り返しても詮ないことだった。クレスティナは想いを振り払うように首を振ると、少年に別れを告げて手綱を振るった。

     ***

 王妃に任務を終えたことを報告した後、クレスティナは近衛兵団の官舎へ戻った。正面出入口から向かって左手の一番奥に、所属する第一連隊第一大隊の談話室はある。そこは小隊長以上の詰め所でもあり、室内では、非番の者たちが長椅子などに座ってくつろいでいた。新人の頃は入りにくかったこの部屋も、小隊長となった今では自分の家も同然だった。その証拠に、飾り戸棚の一部を占領して、自分専用の茶器一式を置いている。
「喉が渇いたな……」
 クレスティナは、今朝方作っておいた冷茶を飲もうと部屋の隅へ向かった。しかし。
「………!?」
 茶を入れておいた水差しは異常に軽く、杯子にさかさまにすれど、雫一滴出てこない。
「……誰です、私のお茶を飲んだのは?」
 漆黒の長い髪が逆立つような気を発しながらおもむろに振り返ると、室内にいた者たちがぎくりと身を固まらせた。
「いや、その、それがだな……」
「オ、オレは別に飲みたくなかったんだが……」
「そうだ。だ、だが、勧められた以上は飲まなければ不敬罪にあたるだろう……?」
 先輩の小隊長たちがしどろもどろで弁解する。「不敬罪」と聞いて、クレスティナは眉根を寄せた。
また・・ですか!?」
 すると、小隊長たちは一斉に頷いた。その時、奥の大隊長室から主が顔を覗かせた。
「やぁやぁ、クレスティナ。おつかれさんー」
 第一大隊の大隊長ラルードは、いつも間延びした声で麾下の兵士たちを良くも悪くも緊張から解放するのだった。
「さっき閣下とお茶をいただいたよー」
「大隊長!」
 クレスティナは大股で大隊長室まで歩いていくと、ラルードの胸元を掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。
「先日、私のお茶を勝手に飲まないで頂きたいと申し上げたはずですが!?」
「――と、閣下に申し上げたんだけどね。閣下がおっしゃるには、きみが悪いと」
 盗人猛々しいとはこのことである。クレスティナは呼気のすべてを次の言葉に込めた。
「どうしてですか!」
「きみが美味しいお茶を作るから、だそうだ」
「………!」
 もはや糾弾する言葉を失ったクレスティナだった。彼女は深い深い溜め息を吐くと、踵を返した。
(作り置いたものを、以前と同じ場所へ置いておいた私が、そう私が馬鹿だったのだ。今度はどこか別の場所へ――)
 そこまで考えた時、ラルードの声が背中に当たった。
「で、クレスティナ。閣下がお呼びだよ。手みやげは冷茶がいいそうだ」
 思わず茶葉の入った袋を引きちぎったクレスティナだった。


 なぜ近衛兵たる自分が近侍のように盆の上に茶を乗せて運んでいるのか理解に苦しみながら、クレスティナは王宮の廊下を迷わず進んでいった。辿り着いたのは、王宮三階の露台だった。南側に面したこの場所は非常に見晴らしが良く、今日も王都の街並みやイデラ港が陽光にきらきらと光っているのが見えた。
「閣下、近衛のクレスティナ殿が参られました」
 クレスティナに気付いた側仕えの者が盆を受け取ってくれ、彼女はその後に付いていった。
「おお、これは気が利くな。ちょうど喉が渇いたところだったのだ」
 わざとらしく逆光の中で笑ったのは、サイファエール唯一の上将軍にして王従弟のゼオラである。彼は杯をクレスティナに掲げると、本当に美味そうに中身を飲んだ。その様子に、茶を全部飲まれたことへの憤りも多少――本当に少しだが薄らいだ。
「先ほどは失礼を致しました。閣下のお召しとあらば、こちらから伺いましたものを」
 すると、ゼオラは憮然として女騎士を見返した。
「それは、呼ばぬ限りは来ぬという意味であろうが。おぬしはまっこと男心がわからぬ奴よな」
「そこまでわかっておいででしたら……。閣下こそ、女心がおわかりでない」
 臆せず言い返して、内心で舌を出す。侍従たちが忍び笑いを漏らすのを見て、ゼオラは「もうよい!」と長椅子の上でふんぞり返った。が、視界の端に布が張られた大きな箱を映した途端、再び身を起こす。
「おお、これよこれ」
 ゼオラは子どもが玩具を見付けたように嬉々として、その箱を自分の前に引きずり出した。
「何ですか?」
「何だと思う?」
 問うクレスティナに笑顔で返し、ゼオラは箱の蓋を自ら開けた。中に入っていたのは、黒と白の絹のようなものだった。
「どうだ!」
 ずいと箱を差し出されて、クレスティナは困惑した。
「どうだとおっしゃられましても……。何ですか、これは?」
 失礼します、と、クレスティナは中身の白い部分二か所を摘んで持ち上げた。が、長い代物だったようで、彼女が後退してもずるずると箱の中から出てくる。やがて最後に出てきた部分が床に擦りそうになって、側にいた侍従が慌てて手を伸ばした。その様を見て、ゼオラが声を荒げる。
「クレスティナ、どこを持っているのだ、どこを。それは裾ではないか」
「裾……?」
 クレスティナは自分が掲げた物をじっと見た後、下方へその輪郭を追っていって首を傾げた。彼女が持っていたのは絹布ではなく、逆さまになった絹服だった。
「なんと遣り甲斐のない……。おぬし、それでも女か」
「これは失礼を」
 箱に入れられた衣装を出すという作業をしたことがなかったクレスティナは慌てて持ち直すと、改めて絹服を眺めた。黒と思っていた色は夜空のような青褐色で、大腿の辺りから裾にかけて徐々に純白へと変化していく意匠は、夜空が白んでいくのにも似て非常に美しかった。大きく開いた胸元とひらひらと幾重にも絹が重なる裾には、星を思わせる真珠が散りばめられてある。袖はなく、代わりに青褐色の薄い肩掛けと手袋が箱の中に残っていた。
「これは見事な……。此度は事前に御相談がございませんでしたが、どなた様に差し上げるのです?」
 長椅子へ、今度こそ倒れ伏した上将軍だった。瀕死の状態の主君を横目で気の毒そうに見ながら、侍従のひとりがクレスティナに小声で打ち明けた。
「クレスティナ殿、貴女にですよ」
 それを聞いて、クレスティナは即座に紅蓮の瞳を丸めた。
「わ、私に!?」
 思い切り眉根を寄せた後、そういえば、と、クレスティナは先ほどのゼオラの言葉を思い返した。彼は確かに「遣り甲斐のない」と言っていた。しかし、何かで功を上げたわけでもなく――もしそうだとしても、近衛兵の報奨が絹服というのもおかしい――、そもそも男女の仲ではありえず――他の女性への贈り物の助言を求められたことさえある――、クレスティナには上将軍が彼女に絹服を見繕った理由がとんとわからなかった。
「あの、閣下。なにゆえ私に……?」
 すると、いきなり立ち上がったゼオラは、人差し指をクレスティナの鼻先に突き付けた。
「おぬし、やはり忘れておるな! 女に二言はないと申したではないか!」
「は……?」
「先日の競射で、負けたら絹服を着ると約束したではないか!」
 言われてみれば、ゼオラの執拗な挑発をあしらうのに、そのようなことを口走ったかもしれない。勝利したゼオラがやたら騒いでいたような気もする。しかし、まさか本当に衣装をあつらえてくるとは思ってもみなかった。
「思い出したか」
 勝ち誇ったようなゼオラを見て、クレスティナは溜め息を吐いた。
「……わかりました。申し上げた通り、女に二言はございません。ただいま着替えて参りますので、しばらくお待ち下さい」
 絹服を抱えたままクレスティナが踵を返すと、途端、それまで得意げに構えていたゼオラが慌てた。
「ま、待て、落ち着け。嬉しいからと言って、そう慌てるでない」
「私は別に……。潔く負けを認めただけですが」
 淡々と返すクレスティナがおもしろくないのか、ゼオラは向きになった。
「おぬしの絹服姿など滅多に見られぬものを、こんな場所で――だいたいそれは、夜会用だ」
 ではどうしろというのかとクレスティナが突っ立っていると、ゼオラの指示を受けた侍従が一通の封書を持ってきた。
「招待状にございます」
「招待状?」
「明日の夜、私の邸で宴を催す。おぬしはそれを着て出席するのだ。わかったな」
 どうして次から次へと遊び事を思い付くのか、しかもなぜ毎回のように自分がそれに巻き込まれてしまうのか、クレスティナはもはや溜め息も吐けず、ただ頷いた。

     ***

 赤みがかった金色の光を発しながら、太陽が地平へと沈んでいく。金糸で縁を縫い取られた雲はほとんど動けずに神を見送り、野の枯れた草はその光を借りて最期の輝きを放っていた。静まり返った田園の中を一台の馬車が滑るように進んでいく。その中で、クレスティナは向かいの座席の背もたれに掛けてあった小さな鏡を見た。そこには、見慣れぬ女がひとり、着飾って座っていた。
(このような服を着て人前に出るようになるとは、昔の私には想像もできなかっただろうな……)
 心の中で呟いて、クレスティナはふと、近衛に入団した当初のことを思い返した。今でこそ彼女の特徴のひとつともなっている漆黒の長い髪も、その頃は他の団員の誰よりも短かった。「女だから」と言われるのが嫌で、そう言わせないために何事にも真剣にがむしゃらに取り組み、耐え抜いた。結果、結局、反感を買って、決闘沙汰になりかけたことも一度や二度ではない。張った肩そのものがもはや鎧ともなっていたあの頃。その後、いろいろなことがあって、彼女は態度の軟化を余儀なくされた。そして。
(女装が昇進のきっかけになるとは皮肉なものだ)
 この年の春、王妃の神殿参りの護衛に付いた時、王妃の身代わりとなって襲ってきた盗賊を返り討ちにした。その功をして、彼女は小隊長となったのだ。他の部隊はともかく、彼女の所属する第一連隊第一大隊では、多くの者が既に彼女を認めてくれていた。
「……もっと早く、私自身が女であることを認められていたら、あるいは運命も変わったかもしれぬのにな……」
 すきま風にふわふわと揺れている絹服に、昨日の館で風にそよいでいた銀杏の葉を重ね見て、クレスティナはぽつりと呟いた。


 ゼオラの私邸は王都の郊外の丘陵地にあった。斜面上に建てられているので玄関は二階にあり、宴の催されている一階の大広間へは、ゆったりと巻いた階段を降りなければならなかった。執事の「皆さまお揃いでございます」の声に時間を間違えたかと思ったが、招待状を見直すとそうではない。訝しげに階段を降りていくと、大広間で歓談していた人々の目がなぜか一斉にクレスティナを見つめてきた。同僚の近衛兵たちや宮廷書記官、ゼオラと親交の厚い貴族たち、そして彼らの妻や恋人たち……。さすがの彼女も驚いて足を止めた。
 普通、未婚の女性が同伴もなしに宴へ出席することは、はしたないとされている。それに思い至って、クレスティナは内心で顔を歪めた。これでは男漁りに来たと思われても仕方がない。普段、男として振る舞っているので、すっかり忘れていた。
(ここまで来てしまったのだ。仕方ない……)
 階段を上るわけにもいかず、クレスティナは意を決して降りていった。彼女が大広間へ降り立つと、周囲の者たちが囁きながら引いていき、彼女の前に心ならずの道ができた。中には見知った顔もあるのに、それらはいつもとは違う訝しげな表情や感心した表情で彼女を見つめていた。クレスティナは自分の失敗を心の中でいっそう激しく罵りながら、大広間の中央へと進んでいった。まずは主催者に招待の礼を述べなければならないからだ。
 ゼオラは取り巻きに囲まれて、上機嫌で葡萄酒を呷っていた。
「閣下」
 クレスティナが声を掛けると、ゼオラはにやりと笑って立ち上がった。
「これは、これは。よもや来ては下さらぬのかと思っておりました」
 臣下に対して何故か敬語を発すと、これまた何を血迷ったか、ゼオラはクレスティナの手を取り、その甲に軽く口づけした。
「閣下!」
 これは悪ふざけが過ぎるというものである。おまけに、ゼオラの衣装は彼女の物と合わせたように、青褐色を基調としていた。衣装をもらった分際で文句は言えないが、これでは彼の恋人と間違われてしまう。
「そんな服を着ている時ぐらい、そのような顔をするでない」
 囁いてにかりと笑う子どものような彼に、クレスティナは大きく息を吐き出すと、眉間の皺を緩めた。彼の遊びに付き合ってしまったのだ。諦めるしかない。
「……本日はお招き頂きましてありがとうございます」
 改めて礼を取った彼女に、ゼオラは満足げに頷いた。
 彼の感覚で選んだ青褐色と純白の絹服は、すらっとした長身の女騎士をまるで夜の女王のように美しく見せていた。いつも垂らしたままの長い髪を、横髪を除いて後ろに緩く結い上げており、そこから覗く項は、普段ではありえない色香を十二分に匂い立たせていた。もともとの気質が剣を嗜むことで研ぎ澄まされたのか、凛とした雰囲気をたたえており、知らぬ者が見れば王侯貴族の貴婦人といった様である。彼女を発見・・してから事ある事に「絹服を」と言ってきた彼の勘は当たっていたのだ。その証拠に、大広間中が階段に姿を現した彼女に目を奪われ、そして今、彼の目の肥えた友人たちが、彼の背後から彼女に熱い視線を送っているではないか。
 そして早速、友人のひとり、コヌス家の当主ファーシェルがゼオラに声をかけた。
「閣下、こちらのお美しい御方を我々には御紹介いただけないので?」
 この時のゼオラのほくそ笑み具合と言ったら、当人のクレスティナが思わず大笑いをしてしまいそうなほどだった。これが、この度の罰遊戯ゲームで彼が一番楽しみにしていた瞬間なのだ。
「ファーシェル、そなたには身重の妻がおるではないか。こちらの御名を聞いてどうするつもりだ」
「な、何とつれないお言葉!」
「閣下、私はまだ心安まらぬ独り身です。是非に」
 今度はティーダー家のランが進み出る。それを機に、独身男たちが次々とクレスティナの周囲に詰めかけた。クレスティナは表面上、柔らかな笑みを取り繕っていたが、内心では呆れた気持ちと正体を明かして失望されたらという気持ち、もうどうにでもなれという投げやりな気持ちでいっぱいだった。
「そのようにもったいぶって、それでは――まさか、こちらの御方は、閣下の将来の伴侶なのですか……!?」
 しかし、にこやかな笑みもそれまでだった。話があらぬ方向へ進みそうになったので、クレスティナは慌てて声を上げた。
「違います!」
 その身も蓋もない否定に、男たちのほうが驚いた。もっとおもしろくなるところで水を差されて、ゼオラが恨めしそうにクレスティナを振り返る。仮にも王家の上将軍相手に発する言葉ではなかったと、クレスティナがどう誤魔化そうか思案していると、人を掻き分け掻き分けやって来たひとりの近衛騎士がゼオラに詰め寄った。その顔――いや、その表情を見て、クレスティナは思わず息を呑んだ。
「閣下、何ということをなさるのです!」
 普段はのんびりとした上官ラルードが、なぜか本気で怒っていた。
「ど、どうしたというのだ、ラルード」
 さすがのゼオラも、その迫力に押されて後ずさった。普段、温厚な人物が怒ると何をしでかすかわからないので恐ろしいのだ。傍にいた近衛兵団の副長ハイネルドも、呆気に取られて部下たるラルードを止められずにいた。
「どうしたもこうしたも、なにゆえ私の部下に悪戯にこのような格好をさせて、人前で辱めるのです!」
 これには、自ら受けて立ったクレスティナも言葉がなかった。
「い、いや、ラルード。落ち着け、これには深い理由が……」
 単なる腕比べの罰遊戯に深い理由も何もなかったが、とにかくゼオラは弁解に追われた。ラルードが最初に貴婦人の正体を見破ったことに感心する余裕は最早ない。
「た、確かに服は私が用意したが、それを着る着ないは本人の意志であって、そもそも彼女が『女に二言はない』と――」
「閣下は少しでもこの宴の後のことをお考えになったのですか!? 官舎にやたら花が届くようになっても困るのですよ! ただでさえ――」
 そこで急に押し黙ったラルードは、クレスティナの顔をちらりと見て、言うべき言葉を呑み込んだ。代わって放たれたのがごまかしの言葉だということは、クレスティナの目に明らかだった。
「近衛にも風紀というものがございますれば!」
 武人のゼオラにとって、軍隊の規律と風紀が乱れることは忌むべきことである。それを持ち出されて、彼は首筋をくわえられた仔獅子のように大人しくなった。
「ラルード、すまぬ。少々度が過ぎた……」
 ゼオラの詫びを聞いて、クレスティナも黙っているわけにはいかなかった。
「大隊長、違うのです。これは、私が――」
「よいのだ、クレスティナ」
 ゼオラが口にしたその名を聞いて、周囲がどよめいた。クレスティナという名でラルードの部下といえば、近衛の紅一点、小隊長のクレスティナ=イザエルに他ならない。普段の彼女も佳人として名を馳せてはいたが、この日の美しさはその比ではなかった。言うなれば、薔薇の蕾が大輪の花を咲かせたような。
「なんと、あの女騎士がこのように化けるとは!」
「さすが閣下。相変わらずお目に狂いがない……」
 背後のざわめきを捨て置いて、ゼオラはクレスティナに言った。
「もうよい。私が用意した以上、おぬしはそもそも着るしかない」
 それは違う、とクレスティナは思った。彼はクレスティナがどうしても嫌だと言えば、無理強いはしなかっただろう。しかし、そのことを言って食い下がっては、事態を収拾しようとしているゼオラの邪魔をすることになるので、クレスティナは黙っていた。
「さて、茶番は終わりだ。とにかく宴は始まったばかり。皆、ゆるりと楽しんでいってくれ」
 ゼオラは杯を掲げてそう言うと、遠くに控えていた侍従を呼んだ。侍従はゼオラの命を受けて、クレスティナを別室へ連れて行った。ラルードの手前、これ以上、彼女を人目にさらすのを控えたのだ。一介の隊長の苦言に耳を貸す上将軍――それがゼオラだった。
 通された部屋ですることもないクレスティナは、そこに飾られてあった剣などを観て時間を潰した。それらは根っからの武人であるゼオラの嗜好を反映し、たとえばクレスティナが使っているような細身の剣などはなく、大振りの剣や槍などが整然と掛けられていた。
「ほんに……そんな服を着ている時ぐらい、絵画の方を愛でるとかしたらどうなのだ」
 背後からかかった声に振り向くと、館の主人が杯ふたつと酒瓶を持ち、呆れた面持ちで立っていた。
「どのような格好をしていても、私は近衛兵です。閣下のお命を守らねば」
 言って、裾から足首を覗かせる。無粋にもそこに巻かれた薄手の脛当てに細身の短剣が差してあり、ゼオラは大きく溜め息を吐いた。もっとも、そこだけではなく、胸元と結い上げた髪の間にも武具が仕込まれていたのだが。
「おぬしは本当にもったいない女よのう」
 もし彼女が女性として普通に育てられていたら、先ほどのように求婚する男たちが競って名乗りを上げただろう。しかし、現実でそうするには、男の方にかなりの覚悟が必要だった。彼女は男としても女としても優秀すぎるのだ。
「……それは褒めて下さっているのですか?」
「そう聞こえぬか? 私としては最高級の賛辞を贈ったつもりだが」
 差し出された杯を受け取ると、クレスティナは礼を言った。賛辞の礼か杯の礼かは言った本人もわからなかった。
「他の方々のお相手は宜しいのですか?」
 椅子に腰を下ろしてしまったゼオラに問うと、彼は顔をしかめて呻いた。
「ラルードに見張られておっては、他の者たちの怒濤の質問に答えられぬゆえ逃げてきた。あれの言うことももっともだが、大誤算だ。つまらぬ」
「『茶番』の衣装にしては高く付きましたね」
 クレスティナは笑うと、窓辺に歩いていった。窓の向こうを覗き見て、目を見張る。
「あの、閣下。外に出ても?」
 尋ねると、ゼオラが誇らしげに笑った。
「無論だ。良い景色だろう」
 露台に出て柵を掴んだクレスティナは、思わず歓声を上げた。眼下には大きな湖が広がっていた。その静かな湖面には天上の星々が無数に煌めき、得も言われぬ美しさだった。
「これのために、ここに邸を建てたのだ」
「ええ、そうでしょうとも……」
「この景色が気に入ったか?」
「はい……」
 クレスティナが心底見惚れていると、ゼオラが突然、言った。
「この景色を、やろうか」

     ***

『おもしろい奴がいるのだ』
 親友からそう言われたのは、六年ほど前のことだった。彼に誘われて近衛兵団の演習を見に行ったが、親友が指したのは細身の新人近衛兵だった。
『……何がおもしろいというのだ。おぬし、趣味を変えたのか』
 険しい表情で未だ洗練されていない剣技を振るっている青年を一瞥すると、ゼオラは興味を失って踵を返した。数日後、その『彼』が近衛史上初の女騎士であることを耳にはしたが、いくら女好きのゼオラでも、小難しい顔をした女には砂粒ほどの好意も感じない。それきり、その近衛兵のことはすっかり忘れた。しかし、それから一年が経った頃。国王の御機嫌伺いを済ませたゼオラが回廊を歩いていると、反対側から歩いてきた近衛兵が彼を呼び止めた。
『ゼオラ殿下。我が副長閣下が演習場でお待ち申し上げておりますが』
 その凛とした女の声に、ゼオラは目を瞬かせて、相手の顔をじっと見つめた。
(どこかで――)
 記憶を掘り返して、いつかの『彼』がこのような顔だったことを、ゼオラは思い出した。しかし、あの時と今とでは、全身を包む雰囲気が違うように思った。短く刈り込まれていた漆黒の髪も、今では肩に届くほどになっている。
『おぬし、名は?』
 尋ねると、天下の上将軍から名を問われたことを光栄と思ったのだろう、女騎士は微かな笑みを浮かべて答えた。
『クレスティナ=イザエルと申します、殿下。第一連隊第一大隊の所属であります』
『……「殿下」ではない』
『は?』
『私のことは「閣下」と呼べ。私は上将軍である』
 それがクレスティナとの出会いだった。


 クレスティナは、親友の取り巻きのひとりだった。ゼオラが親友と武芸の競い合いをする時は必ず姿を見せ、自らも参戦して好成績を修めた。時には仲間たちの「女のくせに」という言葉に激昂することもあったが、もともと竹を割ったような性格なので後腐れがなく、次第に周囲に溶け込んでいく様は見ていても楽しかった。
『おもしろい奴だと言ったであろう。おぬしは見る目がないな』
 酒杯片手に、親友は勝ち誇ったように笑ったものだ。西方で海賊が蛮行を働いているとの報せが届いたのは、それからしばらくしてからのことだ。あまりにも被害が出たことから、海賊相手に親征することとなり、王宮には緊迫した空気が漂っていた。そんな折り、ゼオラは見てしまった。夕闇に浮かび上がる回廊と庭とで離れて佇む親友と、そしてクレスティナの姿を。クレスティナの紅蓮の瞳には、はっきりと恋慕が浮かんでいた。そして、それを見つめる親友の目にも。それは一瞬のことで、クレスティナはすぐに庭を出て行ってしまったが、その関係は明らかだった。親友に、親しくしていた女たちと手を切っていると噂が立っていたのも、それを確信させる原因のひとつだった。だが、親友にこのことについて尋ねることはついにできなかった。彼がその後の戦で矢を喰らい、海中に姿を消したからだ。遺体は潮の関係で上がらなかった。
 親友の死にゼオラも打ちのめされたが、同時にクレスティナのことも気になった。恋人を亡くした彼女は、自身も大怪我を負い、西方に留まったまま、半年以上帰参できなかった。半ば死んだかと思われた頃に戻って来、その時、王妃や侍女たちが泣いて喜んだのは有名な話だ。
 復帰した彼女は、何かひどく吹っ切れた様子で、「女のくせに」という中傷に目くじらを立てることはなくなっていた。それどころか、時には女であることを武器に振る舞うことさえあり、ゼオラにはそれがかえって痛々しく見えた。あいつが帰ってくると思っているのだろうか――そう思うと、彼女を放っておけなかった。彼が事ある事にクレスティナに声をかけたのは、そのせいである。
(これは、恋慕ではない――)
 彼自身、そう思っていたのだが。

     ***

「……閣下、何をおっしゃっているのです?」
 ゼオラの黒い瞳が真摯な光をたたえているのを見て、クレスティナもその顔から笑みを消した。
「『私が用意した以上、おぬしはそもそも着るしかない』――閣下は先ほど私にこうお詫び下さったばかりですのに」
 クレスティナは、今度もゼオラが無理強いをしないことを願った。この景色をもらうということは、この屋敷に住む――ゼオラと結婚するという意味である。この状況で、武勲を立ててもいない彼女にゼオラがただ屋敷を下賜したがっているということなどありえない。結婚適齢期を迎えた男女が――王家の者が、冗談で口にしていいことではない。クレスティナの友人の中にもゼオラの恋人はいたが、彼女はゼオラが少なからず自分に好意を抱いてくれていることは察していた。だが、まさか求婚されるほどとは思っていなかった。それも、こんな唐突に。
(求婚……)
 それで、クレスティナは「あ……」と口元を抑えた。彼女の脳裏で、湖が小さな池に、しっかりとした石の露台がぎしぎしと軋む古びた木の露台へ変わっていく。そして、どうしてこの景色を気に入ったのか、遅まきながら理解した。普段はもう思い出すこともなくなっていたのに、昨日、出くわした館で放たれたあの名が、思い出を引き寄せてしまったのだろうか。今の状況は、かつて恋人と過ごした最後の夜そのものだった。
(フゼスマーニ……)
 涙が出そうになって、クレスティナは咄嗟にゼオラから顔を背けた。類は友を呼ぶというが、恋人とゼオラは、性格から背格好からよく似ていた。彼女がゼオラの気まぐれに悪態を吐きながらも従ったのは、そこに亡き人の面影を見ていたからなのかもしれない。だが、ゆえに、決してゼオラ自身に惚れることはない――。
「要らぬのか」
 ゼオラの声は乾いていた。クレスティナは深呼吸して、言った。
「……はい」
 自分を真っ直ぐと見つめるクレスティナに、ゼオラは首を竦めてみせた。
「それは、残念」
 景色に見とれる彼女の横顔を見て、初めて愛しいと思った。そしてその想いをすぐに口に出してしまった。後悔の念は――もう少し落ち着けば出てきそうだったが。
「……おぬしも奇特な奴よのう。好みのもの・・・・・が目の前にあるのに、それを欲しがらぬとは」
 クレスティナは苦笑した。似すぎているから――それは決して口にできぬ言葉だった。
 二人は無言のまま同時に杯を呷った。


 帰宅しようとクレスティナが玄関を出ると、階段の手すりの袂にラルードが立っていた。
「大隊長、まだいらっしゃったのですか」
 ほとんどの客は既に帰っており、大広間に残っているのはゼオラの取り巻きくらいだった。クレスティナが絹服の裾を摘みながら降りていくと、ラルードは手すりに寄りかかっていた身を起こした。
「おぬしを待っていたのだよ」
 彼を目にした瞬間、そんな気がしていたクレスティナは、素直に頭を垂れた。
「今日はお騒がせ致しまして、大変申し訳ありませんでした」
 ゼオラがラルードを悪く思うことはないだろうが、衆人環視の中、上将軍に楯突かせてしまったことは心苦しかった。
「きみのことだから、無理強いということではないんだろうね。どういうことか聞いておこうかね」
「その……賭をした競射で負けまして……」
「賭だって?」
 縮こまる部下を見て、ラルードは大きく溜め息を吐いた。ゼオラのやりそうなことである。クレスティナは、いま一度深く頭を下げた。
「大隊長。その――本当に申し訳ありません」
 自分が第一大隊の所属になった理由を、クレスティナは知っている。近衛初の女騎士の所属を巡っては、上層部でかなり揉めたらしい。他の大隊長たちが難色を示す中、ラルードだけが受け入れてもいいと申し出てくれた。結果、彼女は晴れて第一大隊の列に加わることができたのだ。このことだけでも彼に対して大恩があるのだが、先刻、彼が口ごもったところを見ると、入団後も陰で色々と迷惑をかけたのだろう。そして今回、さらに迷惑をかけてしまったというわけだ。
 クレスティナの神妙な態度に、ラルードは少々困ったようにこめかみを掻いた。
「そんなに謝る必要はないよ――もし、先ほど私が言いかけたことを気にしているのなら、こちらとしても謝らねばならないね」
 怪訝そうな彼女に、ラルードは「実はね」と語った。
「きみが昇進するきっかけとなった武勲を立てた時のことだよ」
「メルジア様の神殿参りの時のことですか?」
「そうだ。あの時、きみはメルジア様と同じ格好をして――」
 ラルードは言いにくそうに目を泳がせた。
「……今日のように美しかった」
「そ、れは……どうもありがとうございます」
 あからさまに褒められて、思わずクレスティナも頬を赤らめてしまった。
「作戦が成功して盗賊を一網打尽にすることができた。そこまではよかったんだけどね。予想外の事態が起きた」
「何、か、ありました、っけ……?」
 小隊長としては過去の事件を早々に忘れたとは言えず、クレスティナは深く考え込んだ。しかし、彼女が思い出せないのも当然だった。
「きみは知らないはずだよ。なんせ、私をはじめ、小隊長全員がきみに知られないように躍起になっていたからね」
「……はい? 私をのけ者にしたんですか?」
「そうだ。さっき閣下にも申し上げたが、風紀が乱れては困るからね」
 ラルードはあっさりと言って、小さく笑った。
「あの夜、他の部隊の者がね、女装したきみを見てしまって、ちょっとした騒ぎになってね。やっと煙が収まったところなのに、今日の閣下のお遊びだよ。しかも、私に謝って下さっていながら、結局、きみの名を明かしてしまって」
 あれさえなければ、クレスティナと気付いた人間はほとんどいなかったというのに。
「春先、談話室にやたら花が飾ってあったろう。あれは本当はきみ宛のものだったんだよ。きみは『男所帯なのに花を飾られているとは』とか言って感心していたけれど。花瓶の水替えが本当に大変だった……」
「………」
「で、説明が長くなってしまったけれど、つまり、あくまで風紀の問題であって、きみが女であることが原因だと勘違いさせてしまったのなら、私も謝らなければとそういうことだよ」
 なんという優しい人々だろう――。クレスティナはここにはいない小隊長たちの顔も思い浮かべ、唇を噛みしめた。
「まさかあんなふうにかばって下さるとは……嬉しかったです」
「きみは大切な私の部下だからね。優秀だし」
 ラルードは、ふうと吐息した。もうひと月もすれば、それは白くなっているはずだった。
「だが、いつまでも鉄条網を敷いておくわけにもいかないんだろうね。きみもいつかは結婚しなければならないのだし」
 それを聞いて、再びゼオラの言葉がクレスティナの耳に響いた。大らかな上将軍のことは好きだ。しかし、それはあくまで敬愛ということであって、それ以上にはならない。今後も、きっと。
「……そうですよ、大隊長」
 クレスティナはラルードを見ると、まるで少女のように微笑んだ。
「せっかく頂いた高価な服なので、また着させて頂きます」

【 了 】


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